2013年7月23日火曜日

本を読む(3)


三浦綾子著「氷点」(上・下・続)(角川文庫)

 

 この小説は、愛と罪と赦しをテーマにした著者の代表作である。

 辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子が殺害された。夫辻口は妻への復讐心から、極秘に犯人の娘・陽子を、妻夏枝に育てさせることを画策する。

何も知らない夏枝と長男・徹に愛され、すくすくと育つ陽子であった。ところが、夏枝は、夫辻口が友人高木に宛てた手紙の下書きを、偶々目にしてしまう。その中に書かれていた内容に夏枝は驚愕する。辻口の、妻から裏切られた思いや陽子がルリ子を殺した犯人の娘であること、などを書き綴った手紙であった。夏枝は、激しい憎しみと苦しさから、それまでかわいがっていた陽子を殺そうとその喉に手をかけた―。

 兄・徹は陽子に愛情をそそぐが、思いを自制するために友人・北原に陽子を紹介する。北原と陽子は心を通わせる。これを見た夏枝は複雑な嫉妬心から、2人に陽子の出生の秘密をぶちまけてしまう。
 ルリ子を殺した犯人の娘であることを知らされた陽子は、その夜、父辻口と母夏枝、友人北原、兄徹に遺書を書いて、ルリ子が殺された同じ川原で自殺を図る。何が、陽子を自殺へと追いやったのか。

小説は一気にクライマックスへ。

 陽子の遺書は涙なくして読めない。遺書の全文は本に譲るとして、次の抜粋のみ紹介する。

  「自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸をはって生きて行ける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。何故なら、それは自分のソトのことですから。
   しかし、自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失いました。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。
   おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をおゆるし下さい。
   では、くれぐれもお体をお大事になさって下さい。陽子は、これからあのルリ子姉さんが、私の父に殺された川原で薬を飲みます。
   昨夜の雪がやんで、寒いですけれど、静かな朝が参りました。私のような罪の中に生まれたものが死ぬには、もったいないような、きよらかな朝です。
   何だか、私は今までこんなに素直に、こんなにへりくだった気持になったことがないように思います。
陽子

  おとうさま

  おかあさま                       」

 

 氷点続上

 その氷点続上で、心を打たれた一文がある。

  「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」

 著者は、旅先から父辻口に宛てて書いた手紙の中で、このジェラール・シャンドリという人の言葉を、陽子に語らせている。

 手紙の文章は続く。

  「おとうさん、陽子にはまだ生きる目的もよくわかりませんし、人生の何たるかも知りません。でも、ジェラール・シャンドリの言葉によって、何か一条の光が胸にさしこんだような気がします。他の人には何の価値ももたらさない生き方と、そうでない生き方、そんなことも考えさせられました。
   とにかく、どんな風に自分の歩みが変わるかわかりませんけれど、陽子はようやく、自覚的に足を一歩踏出そうとしているのです。…」
 

 電車の中、喫茶店などで、上・下・続の3冊を1週間ほどで一気に読み終えたが、度々感涙に咽んだ。
 冒頭に、「愛と罪と赦しをテーマ」にした小説と紹介したが、非常に深い内容で読み応えのある小説である。

 

2013年7月9日火曜日

清水健太郎氏(元俳優)の合成麻薬αーPVP使用による逮捕の法的問題を考える


 清水健太郎氏のケースは、合成麻薬「α―PVP」がこれまで合法だったのが、今年3月、厚生労働省が麻薬に指定した、という経緯があり、この点がこの問題を考えるうえのポイントになると考えます。
 わかりやすく言えば、厚生労働省が麻薬に指定した翌日、合成麻薬「α―PVP」を使用した、というケースの場合だったら、どうでしょうか。早い話が、昨日までは合法、今日から違法ということになるわけです。
 しかも、清水氏の場合は、前科があり実刑判決を受けていますから、合法だと思っていたら、前日に麻薬に指定されていた、ということで逮捕・起訴されれば、法律的に執行猶予が付けられず再び実刑判決を免れません。このような場合、昨日か今日かで天国と地獄の分かれ目となってしまう、というようなことも起こりうるということになります。
 刑法第38条3項によれば、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」とあります。この条文を読めば、法律を知らないという抗弁はできない、ということになります。これはどういうことかというと、法律を知らないというだけでは、行為者に対する非難可能性になんらの影響もない、ということなのです。
 しかし、法律を知らなかったというだけでなく、行為者が違法であることの意識もなかったという場合はどうか。これが、実は、刑法上、「違法性の意識の問題」として、学説判例がさまざまに対立するほどの重大な問題なのです。
 ちょっと覗いてみましょう。
 犯罪事実を認識したとしても、その違法性を意識しなければ、行為者は行為に際して法的だけでなく道義的にも抑制感情に遭遇しなかったはずであるから、「罪を犯す意思」があったものとして非難できない、という考え方(違法性の意識は故意の要件とする説)には、確かに説得力があります。しかし、違法性の意識があったのか、なかったのか、あるいは、その意識が強かったのか、弱かったのか、によって非難の有無、大・小を決めるということにすると、犯行を反復することによって違法性の意識が鈍麻してしまった常習犯人は、規範意識が強い抵抗力をもっている初犯者よりも、かえって、軽い非難しか加えることができないと批判されます。そういう意味では、違法性の意識があるかないかではなく、違法性の意識が鈍麻するに至ったこと自体に、人格形成についての非難を受けるべきである、ということになります。このように考えれば、常習犯人が重く罰せられていること(常習強窃盗は、「盗犯等ノ防止及び処分二関スル法律」により、通常の強盗罪、窃盗罪より重罪)の意味を理解することができると思います。
 そこで、違法性の意識を欠くようなケースの場合、何らかの事情があるはずと考えて、そのような事情の下では、行為を違法でないと信じるのが全く無理もないという場合には、非難可能性はなくなると考えるべきではないかということになります。
判例を概観しますと、下級審の判例には、これまで述べてきた見解と同じような判断をしているものもかなりありますが、最高裁は、「違法性の意識は故意の要件ではない」としています。
 清水氏は、合成麻薬「α―PVP」を使用した疑いで逮捕されたときに、「違法と知らなかった」と弁解しています。彼の弁解をどう考えるべきでしょうか。
 冒頭では、昨日までは合法であったが、今日から違法麻薬として指定された場合、という極端なケースを考えました。
それでは、清水氏の場合はどうでしょうか。
合成麻薬「α―PVP」の厚生労働省による麻薬指定が今年の3月ということで、まだ違法麻薬の周知期間が短いことを考えますと、「違法であることを知らなかった」という清水氏の弁解も理解できなくはありません。
 その後の報道によりますと、検察側は、処分保留で、清水氏の身柄を釈放したと報じられています。私は、今回の検察官の清水氏に対する処分は正しいと考えます。
 検察官から、「次は違法なものとは思わなかったという言い訳は通用しない」と厳しく言い渡されたとも報じられています。
 清水氏には、検察官の最後の温情と受け止めて、ぜひ立ち直ってもらいたいと思います。