2013年5月29日水曜日

 本を読む(2)



和田秀樹著「東大の大罪」(朝日新聞出版社) 

 

 原発事故の後、NHKに連日のように登場し、放射能の害はたいしたことはなく、心配ないなどというコメントをしていた東大大学院工学研究科のS教授の研究室に数億円のカネが東電から流れていたことが週刊誌等で報じられると、S教授はNHKのブラウン管から消えた。
 当時、やはりそうだったのか、という落胆と怒りが生じたのを覚えている。この間の事情については、2011年4月7日の日刊ゲンダイで詳しく報じられている。
 最近、和田秀樹氏の「東大の大罪」という本に出会った。和田氏は、東大医学部出身の精神科医で、国際医療福祉大学大学院教授でもある。本の巻末で、勉強法やメンタルケアに関する著書多数と紹介されている。
 ぜひ一読をお薦めしたい本である。特に印象に残ったいくつかの文章を紹介したい。 

[一昨年(2011年)三月一一日の東日本大震災によって、福島第一原発は最悪のレベル7のメルトダウン事故を起こしました。国策として進められてきた日本の原子力発電ですが、原子炉技術者も、電力会社の上層部も、政府の委員会メンバーも―「原子力ムラ」といわれますが―その多くが東大関係者で占められていることに、あらためて驚かれた方も多いでしょう。
 いまも避難を余儀なくされている人が十六万人おり、日本の国際的信用も落としかねないこの大事故について、彼らはなんら責任を取っていません](4~5頁) 

[私自身、東大の卒業生ですから、正直に言えば母校の悪口など言いたくはありません。しかし、この国を支えるべきエリートたちの惨憺(さんたん)たる現状を見ていれば、そこに多くの人材を輩出している東大が何か病を抱えているのは間違いない。そこにメスを入れないかぎり、まともなエリートは育たず、したがって日本の将来は危ういのではないか―私には、そんなふうに思えてならないのです](7頁) 

[東大が気にしているのは、大学の「国際ランキング」です。文部科学省がこのランキングを加味して補助金の額を決めるとされているので、東大としても国際競争を意識しないわけにはいかないのでしょう](38頁) 

[では、こうした国際ランキングを上げるために、東大はどんな努力をしているのか。
 そのためには、学生の教育内容を高める必要もなければ、就職率を上げる必要もありません。東大がおもに進めているのは、研究論文の引用頻度を高めることと、留学生比率を増やすことの二つです。
 しかも前者に関しては、自分たちの論文の本数や内容を上げることではなく、外国から引き抜いた優秀な学者に論文をたくさん書かせることで高めようとしています。いずれも「外国人頼み」で、国内の東大生にとっては何のメリットもありません](39頁) 

[外国で失敗したゆとり教育を二〇年遅れで日本にもってきて、アジア最低の学力になったように、欧米で失敗した金持ち優遇税制を何十年遅れでもってきて、アジア最低の国にするつもりなのでしょうか。
 こういうことの主犯は、二〇年、三〇年前にアメリカに留学して、その後、ろくに勉強していないとしか思えない大学教授、とくに東大教授たちです。
 私の頭には、小渕内閣の経済戦略会議や小泉改革ブレーンとして新自由主義の旗振りをし、最近では「社会保障と税の一体改革」論者として消費増税にお墨付きを与え、さらには現在の安倍内閣ブレーンとしてバラマキを追認している伊藤元重教授の顔が浮かびます。今でもテレビにもよく登場しています](76頁) 

[東大の場合、教授は定年まで身分が保証されます。したがって、セクハラやパワハラなどの不祥事でも起こさないかぎり、教授になってからまったく勉強しなくても、六五歳までは定年を延長できてしまいます(逆に、ものすごく優秀でも六五歳になると東大の正教授は辞めないといけません)。それでも、東大の威光で勝手にその学問の権威と思われてしまいます。そのため、世界の新しい潮流を知らない東大教授が学会のトップに君臨し、政治家や官僚に経済政策を提言している。これでは、政策が「前例踏襲」になるのも当然です。
 しかもその提言はオリジナルな理論に基づくものではないので、失敗しても学者はさほど大きな傷を負いません](81頁) 

自分より劣った人材を教授に推薦
[では、なぜ東大は外部から優秀な学者を教授として招聘しないのでしょうか。
 それは、「教授が教授を選ぶシステム」だからです。これは、東大にかぎりません。学校教育法の定めによって、日本の大学は教授会に教授の人事権を付与しています。
 これは、はっきり言って、教授のレベルを落とすために採用された制度としか思えません。それはそうでしょう。たとえばプロ野球のドラフト会議で、誰を指名するかを現役選手に決めさせたらどうなるか。「同じポジションのほうが事情が分かるだろうから」と投手を投手に選ばせれば、自分の登板機会を奪いそうな実力のある優秀な選手を指名するわけがありません。自分より力が劣り、素直に先輩の言うことを聞きそうな従順な後輩を入れたがるでしょう](156~157頁) 

[教授会での教授選びも例外ではありません。自分の立場を守ろうと思えば、外部からグローバルな競争力を持つ学者を連れてくることなど、とんでもない話です。講師や准教授の中から、自分を乗り越えそうもない従順な手下を選んで教授にしておけば安泰です](158頁) 

[ちなみにアメリカの大学では、教授を教授会に選ばせたりはしません。教授の人事に関しては、「ディーン」と呼ばれる学部長に大きな権限が与えられています。ディーンはどんなにすごい実力を持つ教授が来ても自分の立場は脅かされないので、きちんとした基準で、自分の大学にとってメリットの大きい人材を連れてくることができるのです。
 日本もそのような人事制度に改めないかぎり、東大が世界と戦える教授陣を持つことはないでしょう。元大蔵官僚の榊原英資氏も、「教授会に人事権を与えている学校教育法の条文を撤廃しないかぎり、日本はグローバルな競争に勝てない」という意味のことをお書きになっていました。私もまったく同感です](158~159頁)

2013年5月24日金曜日

騙されるな!憲法96条改正論は“まやかし”であり邪道


憲法改正の手続きを定める96条を改正し、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会がこれを発議」という要件を緩めようとするのは“まやかし”であり邪道である。
現在、96条を改正しようとする政党や政治家は、その先にある、戦争放棄を定めた9条改正を本当の狙いとしていることは明らかで、非常に姑息であり、それだけに危険である。「国民よ、騙されるな!」と言いたい。
憲法は、国の基本法である。日本の憲法は硬性憲法であり、改正手続きが厳しく定められている。仮に、憲法が容易に改正できることになれば、その時々の権力者の思うように憲法を改正できることになり、国家が不安定になる。だから、権力者を縛る法という意味で、安易な憲法改正ができないようにしている。その意味で、憲法改正の発議のハードルを高くしているのである。
日本の憲法が、世界の中で、特に改正のハードルが高いなどと言われることがあるが、それは嘘である。
アメリカでは、憲法改正の発議をするためには、上下両院それぞれ3分の2以上の賛成が必要である。加えて、50州のうち、4分の3以上の州議会の同意を得えなければならないとされており、日本よりはるかに厳しいといえる。ドイツでは、連邦議会の3分の2以上、連邦参議院の3分の2以上の賛成が必要とされる。それにもかかわらず、アメリカでもドイツでも、憲法の改正はたびたびなされている。
アメリカやドイツの例を見れば、改正手続きが厳しいから、憲法改正が出来ないのだ、という意見は“まやかし”であることがわかる。
諸外国で、改正手続だけを先行して、これに手を付けた例は寡聞にして知らない。
憲法改正論者が、その正当性をいうのであれば、正々堂々と憲法改正全体をどのように考えているのか、真正面から問題提起すべきであって、それを隠して96条の改正手続きを先行させるというのは邪道であり卑怯である。
以上の理由により、96条改正論には断固反対する。

 

2013年5月22日水曜日

本田勝彦JT元社長のNHK経営委員長就任は言語道断


  このたび、JT元社長の本田勝彦氏のNHK経営委員長就任の報道がなされた。これに対し、  禁煙ジャーナルの渡辺文学編集長の呼びかけで、日本禁煙学会の緊急声明とともに、筆者は、2013年5月20日、各党の関係者に対し、抗議声明を送信しました。声明の要旨と名宛人は下記のとおりであります。              
 
 
  
 
 
抗議声明(要旨) 

   5月19日の朝日新聞によりますと、JTの元社長であった本田勝彦氏がNHK経営委員長に就任の見通し、と報じられています。
   しかし、この人事案には断固反対であります。その理由は下記のとおりです。
   放送法第1条によれば、「この法律は、次に掲げる原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする」としたうえで、2項において、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」と定めています。
   たばこ産業の最高幹部であった者が、こともあろうにNHKの経営委員長に就任などということになれば、この放送法の基本理念に著しく悖ることは明らかであります。
たばこ会社は、人命を損なう公害企業であるというのが、国際的知見であり、これを基にたばこ規制枠組み条約が第56回世界保健総会において全会一致で採択され、我が国は、2004年5月19日に同条約を国会承認し、2005年2月2日公布、同月27日に効力発生しておりますことはご案内のとおりであります。
   このたばこ規制枠組み条約第5条によれば、
   「たばこの消費、ニコチンによる習慣性及びたばこの煙にさらされることを防止し及び減少させるための適当な政策を策定するに当たり、効果的な立法上、執行上、行政上又は他の措置を採択し及び実施し、並びに、適当な場合には、他の締約国と協力すること」(2項(b))
「締約国は、たばこの規制に関する公衆の健康のための政策を策定し及び実施するに当たり、国内法に従い、たばこ産業の商業上及び他の既存の利益からそのような政策を擁護するために行動する」(3項)
  と定めています。
   報じられているJTの元社長本田勝彦氏のNHK経営委員長就任は、たばこ規制の国際的動向に真っ向から反する、偏頗な人事であることは疑いようがなく言語道断と言わざるをえません。
   以上の理由により、断固反対を表明します。
 
 
(声明文送信先ー順不同)

  民主党党首 海江田万里殿
  長妻 昭 殿
 みんなの党党首 渡辺喜美殿
 社会民主党党首 福島瑞穂殿
 日本共産党党首 志位和夫殿
 笠井亮 殿
日本未来の党党首 阿部知子殿
自由民主党
 尾辻秀久殿
 武見敬三殿
公明党党首山口那津男殿
 松あきら殿
 



  
 
 
 
 

2013年5月14日火曜日

本を読む(1)


小出裕章著「原発はいらない」(幻冬舎ルネッサンス新書)

 



   著者は、この本の序章で、「福島第一原発は『人災』であり『犯罪』である」と明言し、原発の真実をあらゆる角度から紹介する。
 著者は、京都大学原子炉実験所に助手として採用され、この方面の第一人者であることは誰もが認めるところであろうが、氏は、現在でも助教(助手)の地位のままである。
 著者の次の言葉からは、正に学者の良心を断固として貫いてきた決意が読み取れ、大変感銘を受ける。
 
[私は40年以上にわたって、「原発は危険、必ず事故が起きる。起きれば壊滅的な被害になる」と主張してきました。原発建設予定地の住民による反原発運動にも、可能な限り関わってきたつもりです](17頁)
 
   そして、ご自身の紹介のところで、「京都大学原子炉実験所は、もともと原発推進の立場で原子力を研究している所ではありません。大学として基礎的な学問をする場で、私のように原発反対の研究者もいます。東大には反原発の現役研究者はいませんから、このあたりは京大の学風、気質なのかもしれないと思います」と書いている(23頁)。
 
 著者は、続けて、「反原発の研究者としては、海老沢徹さん、小林圭二さん、川野眞治さん、今中哲二さん、瀬尾健さん(故人)、そして私の6人がいました。それぞれ研究テーマも違いますし、反原発に対する濃淡もありますが、政府、官僚(原発を所管する経済産業省と文部科学省)、電力会社、関連企業、東大を中心とする研究者が作る「原子力村」とは一線を画して、自分の研究を続けてきました」(23頁)とある。
 
 2011年3月11日の、三陸沖を震源とするマグニチュード9・0の大地震の発生、その後に東北、北関東各県の太平洋沿岸を襲った大津波、そして東京電力福島第一原子力発電所(原発)の「破局的な事故」、それによる現在も収束できない壊滅的被害について、著者は、本書において、全ての真実を語っている。特に、原発を推進してきた国、東京電力、学者、官僚、政治家たち、そして真実を伝えてこなかったマスコミ等について、その責任を厳しく告発し、今後起こりうる深刻な事態について警告を発する。
 
  本書はあくまでも一般読者向けにかみ砕いて書かれているので、科学的基礎知識がなくとも、読みとおすことができる。
 
  報道によると、福島第一原発事故の収束は全くできておらず、汚染水の処理については“お手上げの状態”とも報じられている。その深刻な状況の中に、原発を海外に輸出する政府の方針が正式に打ち出された、という報道に接し、人類に対する冒涜を思わざるを得ない。こんなことが許されてよいのか、われわれ日本国民は思考力、批判力を失ってしまったのか、そのような失望感と絶望感に襲われる。しかし、筆者が本書を取り上げたのは、良心の学者としての著者の人生をかけての警告であるから、一人でも多くの方に本書を手に取ってほしい、との共感のメッセージを伝えたかったのである。
  以下には、著者の記述の中から、印象に残っているいくつかの文章を抜き出して紹介させていただく。

安全な原発などはない
 北海道電力の(とまり)原発では二〇〇七年に、発電所内部で火災が発生したり配線が何者かによって切断されたりする事件が発生。女川原発(宮城県)では制御棒の脱落やカービン建屋の火災、志賀原発(石川県)では定期点検中に臨界事故が発生、美浜原発(福井県)では二次冷却系の配管の破損、蒸気漏れ事故で作業員五人が亡くなっています。
 
 このように見てくると、全国各所にある原発は、地震や津波とは無関係に、しばしば事故を引き起こしているのです。設計自体のミスや、人為的なミスも少なくありません。そしてその事故やミスがどんな結果をもたらすかは、今回の福島第一原発事故の被害がどこまで深まり、広がっていくかが分からないように、それこそ「想定外」と言ってもいいでしょう。
   「安全な原発などはない」は、「すべての原発は危険」と同じ意味です。だから私は、原発の運転即時停止を求め続けるしかありません。(30~31頁)

原発推進派は、事故を想定すらしていなかった

 
  人が作った機械は、どんなものでも例外なく故障します。原発を推進してきた人たちは、その当たり前のことに目を(つぶ)ってしまいました。だからこそ、いざという時のための安全装置を用意しなかったのです。彼らは今回の事故を、「想定外の津波の高さ」のために引き起こされたと弁解していますが、もともと炉心が溶けるような事故は決して起きないと、その可能性を無視していたのです。
 
 
 米国・スリーマイル島原発事故(一九七九年)、旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(一九八六年)があっても彼らは何の教訓も得なかったのか、格納容器にもベントが付いたのは、何と二〇〇〇年に入ってからです。推進派の人々は、とりわけ政府と電力会社の人々は、事故の直前まで、事故を想定すらしていませんでした。(72頁) 

もはや安全な食料は望めない状況に

 放射性物質には半減期というものがあります。これは、それぞれの放射性物質が半分になるまでに、どれくらいの時期がかかるかを示したものですが、ヨウ素131は約八日、セシウム137は約三〇年、ストロンチウム90は約二九年、そしてプルサーマルの燃料であるプルトニウムは約二万四〇〇〇年です。プルトニウムの場合、肺に吸い込んだりすると、ほとんど排泄されることなく、肺と骨に蓄積してしまいます。つまり、いったん取り込んだら、一生、内部被曝し続けることになるわけです。
 
 
 このように健康を脅かす内部被曝に目を瞑るわけにはいきませんが、福島第一原発から放出された放射性物質は、すでに首都圏を含めた広範囲に広がっています。また、日本だけでなく世界規模でも、度重なる核実験や放射能漏れ事故による汚染が広がっています。残念ですが、もはやこの地上には、安全な食料などどこにも存在しません。 (146~148) 

原子力安全委員会の会議には、議事録がない?

 原子力安全委員会では原子力の専門家が委員を務めていますが、「原発は安全だ。事故は絶対に起きない」と主張してきた人たちばかりです。政府に助言を要請されても、二時間くらい話し合って、「国の言っていることは妥当です」で終わりです。
 
 私は、裁判などを通じて原子力安全委員会の実情も見てきました。専門家の委員会といえば議論百出のはずですが、それが全くの見込み違いで、ほとんど実質的な審査をせずに結論を出していました。さながら、政府や官僚の操り人形みたいな役割を淡々とこなしているだけの組織です。議事録すらない委員会も度々開かれていました。

 両機関が事故防止にどんな役割を果たしたかというご質問に対しては、ほとんど役に立たなかったと言うしかありません。むしろ、表現は不適当かもしれませんが、「事故の共犯者」とさえ言ってもいいくらいです。

                        (170~171頁)

細胞分裂の活発な子供は、被曝の影響を受けやすい

 私たち人間という個体のはじまりは、精子と卵子が結合して生まれたたった一つの細胞、いわゆる万能細胞です。そのたった一つの細胞が持っている遺伝情報を、細胞分裂によって複製しながら、目ができ、手ができ、頭ができ……といったように人間が作られます。

 人間の成人の身体はおよそ六〇兆個の細胞で成り立っていますが、細胞分裂が活発な時期に、もし、何らかの理由で遺伝情報に傷がつけば、傷を持った遺伝情報が複製されることになるのです。放射性物質はこの遺伝情報を傷つける、「超悪玉」と言っていいでしょう。

 図36は、第一章でも紹介しましたが、私が最も信頼する物理学者ゴフマン博士が推定した、一万人・シーベルト当たりのがん死者数を被曝年齢ごとに示したものです。一万人・シーベルトというのは、一万人がそれぞれ一シーベルトずつ、一〇万人であれば〇.一シーベルト(=一〇〇ミリシーベルト)ずつ被曝した状態を言います。ちなみに、すでに本書にも出てきていますが、このシーベルトというのは被曝した放射線量を表す単位です。被曝する放射線のエネルギーによって変わりますが、一〇〇〇分の一シーベルトに当たる一ミリシーベルトが、すべての細胞(成人なら六〇兆個)に放射線が一本ずつ当たる量となります。ですから、一〇〇ミリシーベルトだと、すべての細胞に、それぞれ一〇〇本ずつの放射線を浴びることになるわけです。(182~183頁)

 

政府は住民を守ろうとしなかった?

 発電量一〇〇万キロワットの原発一基が一年に燃やすウランは、一トンです。広島原爆のウラン量が八〇〇グラムですから大変な量です。ウランを燃やせば、大量の核分裂生成物という放射性物質を作り出します。何かあれば、その放射性物質という毒物が大量に大気中に放出されることになります。
「原発は機械です。機械は時に故障したり事故を起こしたりする。原発を動かしているのは人間で、神ではない。時には誤りを犯す」と私は主張してきました。しかし原発推進派の人たちは、「破局的な事故は起きない。そんなことを想定すること自体がおかしい。破局的事故は想定不適当」と突き放してきたのです。
 しかし、事故は起きました。とてつもなく悲惨な、破局的事故が起きてしまいました。おかげで周辺住民の方は、大変な辛苦(しんく)を強いられているわけです。政府がもっときちんとした防災対策を講じていれば、住民の被曝を少なくできた可能性がありますし、不安感もやわらげることができたでしょう。
 防災の原則は、「危険を大きめに評価し、あらかじめ対策を講じて住民を守る」ことだと思います。しかし政府のやってきたことは、一貫して事故を過小評価し、楽観的な見通しを公表する事でした。事故の規模も当初はレベル4、そしてレベル5に上げ、最後にようやく7に引き上げました。

 
 情報隠しを含め、政府には住民を守ろうとする強い意志があったようには思えません。
 しかも、これだけの事故を引き起こしながら、国や東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、推進派である科学者、真実を伝えない報道など、誰も責任をとらず、住民や最悪の事態を防ぐために被曝覚悟の作業をしている原発作業員に犠牲を強いています。(216~218頁)

 

 ガンジーの墓碑に記されている「七つの大罪」を紹介しておきましょう。

 一番はじめは、「理念無き政治」です。それから、「労働無き富」「良心無き快楽」「人格無き知識」「道徳無き商業」、そして「人間性無き科学」。無定見に原発推進の旗を振った原子力研究者だけでなく、私を含めたいわゆるアカデミズムの世界が原子力政策に加担してきたことを、今後、問い続けなければならないと思っています。同時に、東京電力をはじめとする電力会社に、道徳観を失った経営は必ず破綻することを噛みしめ、原発廃絶の決断を下すよう強く求めます。

 最後は、「献身無き崇拝」です。信仰心をお持ちの方は、ぜひその教えを実践されることを期待しています。 (219頁)

2013年5月5日日曜日

ピアノライブデビュー


去る4月28日、下北沢の「そばカフェin音倉」で、

福島・南会津と世田谷をつなぐ

震災復興支援・県外避難者の交流カフェ

の集いが開かれた。

 NPO法人環境エネルギー政策研究所・研究員の船津寛和さんの講演の後、被災者の一人として、いわき市から参加した青木由紀子さんの「絵本読み聞かせ」の後、民謡日本一の朝倉さやさんの三味線弾き語りによる生コンサートと続いた。

 実は、朝倉さんのライブの前に、小生が前座のピアノライブに出演した。友人の結婚式などで弾いたことはあったが、このような生のライブ会場で、ピアノを弾いたのは初めてであった。

 熱気に包まれた会場の雰囲気を察して、なじみの深い曲をとの思いで、最初にベートーベンの「エリーゼのために」を弾き、続けてショパンのワルツ作品64の2を演奏した。

 ここで舞台をおりようとしたら、会場から予期しなかった“アンコール”の声をいただいたので、その気になって、十八番のバダツェフスカの「乙女の祈り」を演奏した。

 まあまあのできかな、と思って立ち上がったところ、なんと「ブラボー」の声をいただいた。これには本人もびっくりして思わず両手を挙げてしまった。

 こうして、小生のピアノライブデビューとなった。

 生まれ変わったら何になりたいか?と聞かれると、ピアニストと答えているが、生まれ変わる前に夢を実現させたような気分になり、ひとり悦に入っている。 

 今度は、佐渡裕さんの「題名のない音楽会」(テレビ朝日)から声がかからないかしらん。(調子に乗りすぎていますよねー笑)

2013年5月1日水曜日

嫌煙権運動の歴史的勝利に想う


(2013年2月18日嫌煙権運動35周年記念に寄せて)


35年前のエピソードあれこれ
 
新幹線など特急列車は、こだま16号車を唯一の例外として、全てフリースモーキング!
レストランも全て喫煙自由
病院の待合室にも灰皿
家庭裁判所の待合室に赤ちゃんのベッドと一緒に同室内に灰皿
東京弁護士会公害委員会では、喫煙しながら大気汚染を議論
テレビでたばこCM氾濫
たばこパッケージには有害表示一切なし
等々

35年前、このような野蛮な時代に、我々は勇躍「嫌煙権」の市民運動を旗揚げした。何といっても、中田みどりさんの「嫌煙権」というネーミングが“歴史的”であったと思う。単に「嫌煙」ではなく、「嫌煙権」という権利性をアピールしたのがすばらしく、その後の市民運動を決定づけたと思う。このネーミングのお陰で、われわれ法律家が正面から堂々と、非喫煙者の煙害を人格権侵害として主張する事ができたのである。そして何といっても、市民運動を先頭に立って引っ張った渡辺文学氏のリーダーシップが特筆されなければならない。
さて、嫌煙権訴訟は、真正面から非喫煙者の権利を社会的に確立するための裁判闘争であった。法社会学者から政策形成型訴訟の典型的裁判と評された。提訴して直ぐ、全国の特急列車の一両が禁煙になり、その後指定席に禁煙車新設、そして7年後の判決時には、各列車の約30%が禁煙車両となるという画期的な成果を勝ち取ることができた。

ここで、今では失笑のエピソードを紹介。

東大病院の物療内科という気管専門の診察室でのこと、カーテン越しから医師と患者の会話が待合室にいた小生に聞こえてきた。
患者 「先生、咳きが止まらないのですが、喫煙していても大丈夫でしょうか」
医師 「いいよ、ただ、吸った後うがいしておきなさい」
カーテンがめくれた時、その医師の机の上の灰皿が吸殻で一杯であったのが見えた。この医師と患者は、その後どうなったか、知るすべがない。
もう一つ、小生が自宅近くのクリニックへ行って診察を受けたときの会話
私 「先生、碁会所へ行ってくると、呼吸の具合が悪くなります。たばこの煙ではないかと思うのですが」
医師 「うん、君もたばこを吸って耐性をつけたらいいよ」
この医師は、それから15年後肺がんで亡くなった、と噂で聞いた。ヘビースモーカーであったらしい。納得!
とまあ、こんなメチャクチャな時代であった。
小生は、集会などで「嫌煙権運動は勝利が約束されている運動である、頑張ろう」と呼び掛け続けてきた。それから35年が経った。
幸いにもその予言が的中したと思う。市民運動としては、数少ない成功した運動となった。
しかし、喫煙奨励の「たばこ事業法」がまだ息をしている。これを絶命させなければならない。この悪法が元凶であることを改めて訴えておきたい。
原発事故という“人災”に対して、これを推進してきた連中がまだ何の責任も追及されていないのは、どう考えてもおかしい。このようなわが日本社会の悪しき曖昧さと喫煙被害に甘い日本社会の体質とには共通したものがあると考える。
人間の命を尊重するという視点が確立されなければ、喫煙被害はなくならないし、壊滅的な原発事故という悪夢を再び見ることになろう。
どちらにも手を緩めるわけにはいかない。