2013年5月14日火曜日

本を読む(1)


小出裕章著「原発はいらない」(幻冬舎ルネッサンス新書)

 



   著者は、この本の序章で、「福島第一原発は『人災』であり『犯罪』である」と明言し、原発の真実をあらゆる角度から紹介する。
 著者は、京都大学原子炉実験所に助手として採用され、この方面の第一人者であることは誰もが認めるところであろうが、氏は、現在でも助教(助手)の地位のままである。
 著者の次の言葉からは、正に学者の良心を断固として貫いてきた決意が読み取れ、大変感銘を受ける。
 
[私は40年以上にわたって、「原発は危険、必ず事故が起きる。起きれば壊滅的な被害になる」と主張してきました。原発建設予定地の住民による反原発運動にも、可能な限り関わってきたつもりです](17頁)
 
   そして、ご自身の紹介のところで、「京都大学原子炉実験所は、もともと原発推進の立場で原子力を研究している所ではありません。大学として基礎的な学問をする場で、私のように原発反対の研究者もいます。東大には反原発の現役研究者はいませんから、このあたりは京大の学風、気質なのかもしれないと思います」と書いている(23頁)。
 
 著者は、続けて、「反原発の研究者としては、海老沢徹さん、小林圭二さん、川野眞治さん、今中哲二さん、瀬尾健さん(故人)、そして私の6人がいました。それぞれ研究テーマも違いますし、反原発に対する濃淡もありますが、政府、官僚(原発を所管する経済産業省と文部科学省)、電力会社、関連企業、東大を中心とする研究者が作る「原子力村」とは一線を画して、自分の研究を続けてきました」(23頁)とある。
 
 2011年3月11日の、三陸沖を震源とするマグニチュード9・0の大地震の発生、その後に東北、北関東各県の太平洋沿岸を襲った大津波、そして東京電力福島第一原子力発電所(原発)の「破局的な事故」、それによる現在も収束できない壊滅的被害について、著者は、本書において、全ての真実を語っている。特に、原発を推進してきた国、東京電力、学者、官僚、政治家たち、そして真実を伝えてこなかったマスコミ等について、その責任を厳しく告発し、今後起こりうる深刻な事態について警告を発する。
 
  本書はあくまでも一般読者向けにかみ砕いて書かれているので、科学的基礎知識がなくとも、読みとおすことができる。
 
  報道によると、福島第一原発事故の収束は全くできておらず、汚染水の処理については“お手上げの状態”とも報じられている。その深刻な状況の中に、原発を海外に輸出する政府の方針が正式に打ち出された、という報道に接し、人類に対する冒涜を思わざるを得ない。こんなことが許されてよいのか、われわれ日本国民は思考力、批判力を失ってしまったのか、そのような失望感と絶望感に襲われる。しかし、筆者が本書を取り上げたのは、良心の学者としての著者の人生をかけての警告であるから、一人でも多くの方に本書を手に取ってほしい、との共感のメッセージを伝えたかったのである。
  以下には、著者の記述の中から、印象に残っているいくつかの文章を抜き出して紹介させていただく。

安全な原発などはない
 北海道電力の(とまり)原発では二〇〇七年に、発電所内部で火災が発生したり配線が何者かによって切断されたりする事件が発生。女川原発(宮城県)では制御棒の脱落やカービン建屋の火災、志賀原発(石川県)では定期点検中に臨界事故が発生、美浜原発(福井県)では二次冷却系の配管の破損、蒸気漏れ事故で作業員五人が亡くなっています。
 
 このように見てくると、全国各所にある原発は、地震や津波とは無関係に、しばしば事故を引き起こしているのです。設計自体のミスや、人為的なミスも少なくありません。そしてその事故やミスがどんな結果をもたらすかは、今回の福島第一原発事故の被害がどこまで深まり、広がっていくかが分からないように、それこそ「想定外」と言ってもいいでしょう。
   「安全な原発などはない」は、「すべての原発は危険」と同じ意味です。だから私は、原発の運転即時停止を求め続けるしかありません。(30~31頁)

原発推進派は、事故を想定すらしていなかった

 
  人が作った機械は、どんなものでも例外なく故障します。原発を推進してきた人たちは、その当たり前のことに目を(つぶ)ってしまいました。だからこそ、いざという時のための安全装置を用意しなかったのです。彼らは今回の事故を、「想定外の津波の高さ」のために引き起こされたと弁解していますが、もともと炉心が溶けるような事故は決して起きないと、その可能性を無視していたのです。
 
 
 米国・スリーマイル島原発事故(一九七九年)、旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(一九八六年)があっても彼らは何の教訓も得なかったのか、格納容器にもベントが付いたのは、何と二〇〇〇年に入ってからです。推進派の人々は、とりわけ政府と電力会社の人々は、事故の直前まで、事故を想定すらしていませんでした。(72頁) 

もはや安全な食料は望めない状況に

 放射性物質には半減期というものがあります。これは、それぞれの放射性物質が半分になるまでに、どれくらいの時期がかかるかを示したものですが、ヨウ素131は約八日、セシウム137は約三〇年、ストロンチウム90は約二九年、そしてプルサーマルの燃料であるプルトニウムは約二万四〇〇〇年です。プルトニウムの場合、肺に吸い込んだりすると、ほとんど排泄されることなく、肺と骨に蓄積してしまいます。つまり、いったん取り込んだら、一生、内部被曝し続けることになるわけです。
 
 
 このように健康を脅かす内部被曝に目を瞑るわけにはいきませんが、福島第一原発から放出された放射性物質は、すでに首都圏を含めた広範囲に広がっています。また、日本だけでなく世界規模でも、度重なる核実験や放射能漏れ事故による汚染が広がっています。残念ですが、もはやこの地上には、安全な食料などどこにも存在しません。 (146~148) 

原子力安全委員会の会議には、議事録がない?

 原子力安全委員会では原子力の専門家が委員を務めていますが、「原発は安全だ。事故は絶対に起きない」と主張してきた人たちばかりです。政府に助言を要請されても、二時間くらい話し合って、「国の言っていることは妥当です」で終わりです。
 
 私は、裁判などを通じて原子力安全委員会の実情も見てきました。専門家の委員会といえば議論百出のはずですが、それが全くの見込み違いで、ほとんど実質的な審査をせずに結論を出していました。さながら、政府や官僚の操り人形みたいな役割を淡々とこなしているだけの組織です。議事録すらない委員会も度々開かれていました。

 両機関が事故防止にどんな役割を果たしたかというご質問に対しては、ほとんど役に立たなかったと言うしかありません。むしろ、表現は不適当かもしれませんが、「事故の共犯者」とさえ言ってもいいくらいです。

                        (170~171頁)

細胞分裂の活発な子供は、被曝の影響を受けやすい

 私たち人間という個体のはじまりは、精子と卵子が結合して生まれたたった一つの細胞、いわゆる万能細胞です。そのたった一つの細胞が持っている遺伝情報を、細胞分裂によって複製しながら、目ができ、手ができ、頭ができ……といったように人間が作られます。

 人間の成人の身体はおよそ六〇兆個の細胞で成り立っていますが、細胞分裂が活発な時期に、もし、何らかの理由で遺伝情報に傷がつけば、傷を持った遺伝情報が複製されることになるのです。放射性物質はこの遺伝情報を傷つける、「超悪玉」と言っていいでしょう。

 図36は、第一章でも紹介しましたが、私が最も信頼する物理学者ゴフマン博士が推定した、一万人・シーベルト当たりのがん死者数を被曝年齢ごとに示したものです。一万人・シーベルトというのは、一万人がそれぞれ一シーベルトずつ、一〇万人であれば〇.一シーベルト(=一〇〇ミリシーベルト)ずつ被曝した状態を言います。ちなみに、すでに本書にも出てきていますが、このシーベルトというのは被曝した放射線量を表す単位です。被曝する放射線のエネルギーによって変わりますが、一〇〇〇分の一シーベルトに当たる一ミリシーベルトが、すべての細胞(成人なら六〇兆個)に放射線が一本ずつ当たる量となります。ですから、一〇〇ミリシーベルトだと、すべての細胞に、それぞれ一〇〇本ずつの放射線を浴びることになるわけです。(182~183頁)

 

政府は住民を守ろうとしなかった?

 発電量一〇〇万キロワットの原発一基が一年に燃やすウランは、一トンです。広島原爆のウラン量が八〇〇グラムですから大変な量です。ウランを燃やせば、大量の核分裂生成物という放射性物質を作り出します。何かあれば、その放射性物質という毒物が大量に大気中に放出されることになります。
「原発は機械です。機械は時に故障したり事故を起こしたりする。原発を動かしているのは人間で、神ではない。時には誤りを犯す」と私は主張してきました。しかし原発推進派の人たちは、「破局的な事故は起きない。そんなことを想定すること自体がおかしい。破局的事故は想定不適当」と突き放してきたのです。
 しかし、事故は起きました。とてつもなく悲惨な、破局的事故が起きてしまいました。おかげで周辺住民の方は、大変な辛苦(しんく)を強いられているわけです。政府がもっときちんとした防災対策を講じていれば、住民の被曝を少なくできた可能性がありますし、不安感もやわらげることができたでしょう。
 防災の原則は、「危険を大きめに評価し、あらかじめ対策を講じて住民を守る」ことだと思います。しかし政府のやってきたことは、一貫して事故を過小評価し、楽観的な見通しを公表する事でした。事故の規模も当初はレベル4、そしてレベル5に上げ、最後にようやく7に引き上げました。

 
 情報隠しを含め、政府には住民を守ろうとする強い意志があったようには思えません。
 しかも、これだけの事故を引き起こしながら、国や東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、推進派である科学者、真実を伝えない報道など、誰も責任をとらず、住民や最悪の事態を防ぐために被曝覚悟の作業をしている原発作業員に犠牲を強いています。(216~218頁)

 

 ガンジーの墓碑に記されている「七つの大罪」を紹介しておきましょう。

 一番はじめは、「理念無き政治」です。それから、「労働無き富」「良心無き快楽」「人格無き知識」「道徳無き商業」、そして「人間性無き科学」。無定見に原発推進の旗を振った原子力研究者だけでなく、私を含めたいわゆるアカデミズムの世界が原子力政策に加担してきたことを、今後、問い続けなければならないと思っています。同時に、東京電力をはじめとする電力会社に、道徳観を失った経営は必ず破綻することを噛みしめ、原発廃絶の決断を下すよう強く求めます。

 最後は、「献身無き崇拝」です。信仰心をお持ちの方は、ぜひその教えを実践されることを期待しています。 (219頁)