2013年5月1日水曜日

嫌煙権運動の歴史的勝利に想う


(2013年2月18日嫌煙権運動35周年記念に寄せて)


35年前のエピソードあれこれ
 
新幹線など特急列車は、こだま16号車を唯一の例外として、全てフリースモーキング!
レストランも全て喫煙自由
病院の待合室にも灰皿
家庭裁判所の待合室に赤ちゃんのベッドと一緒に同室内に灰皿
東京弁護士会公害委員会では、喫煙しながら大気汚染を議論
テレビでたばこCM氾濫
たばこパッケージには有害表示一切なし
等々

35年前、このような野蛮な時代に、我々は勇躍「嫌煙権」の市民運動を旗揚げした。何といっても、中田みどりさんの「嫌煙権」というネーミングが“歴史的”であったと思う。単に「嫌煙」ではなく、「嫌煙権」という権利性をアピールしたのがすばらしく、その後の市民運動を決定づけたと思う。このネーミングのお陰で、われわれ法律家が正面から堂々と、非喫煙者の煙害を人格権侵害として主張する事ができたのである。そして何といっても、市民運動を先頭に立って引っ張った渡辺文学氏のリーダーシップが特筆されなければならない。
さて、嫌煙権訴訟は、真正面から非喫煙者の権利を社会的に確立するための裁判闘争であった。法社会学者から政策形成型訴訟の典型的裁判と評された。提訴して直ぐ、全国の特急列車の一両が禁煙になり、その後指定席に禁煙車新設、そして7年後の判決時には、各列車の約30%が禁煙車両となるという画期的な成果を勝ち取ることができた。

ここで、今では失笑のエピソードを紹介。

東大病院の物療内科という気管専門の診察室でのこと、カーテン越しから医師と患者の会話が待合室にいた小生に聞こえてきた。
患者 「先生、咳きが止まらないのですが、喫煙していても大丈夫でしょうか」
医師 「いいよ、ただ、吸った後うがいしておきなさい」
カーテンがめくれた時、その医師の机の上の灰皿が吸殻で一杯であったのが見えた。この医師と患者は、その後どうなったか、知るすべがない。
もう一つ、小生が自宅近くのクリニックへ行って診察を受けたときの会話
私 「先生、碁会所へ行ってくると、呼吸の具合が悪くなります。たばこの煙ではないかと思うのですが」
医師 「うん、君もたばこを吸って耐性をつけたらいいよ」
この医師は、それから15年後肺がんで亡くなった、と噂で聞いた。ヘビースモーカーであったらしい。納得!
とまあ、こんなメチャクチャな時代であった。
小生は、集会などで「嫌煙権運動は勝利が約束されている運動である、頑張ろう」と呼び掛け続けてきた。それから35年が経った。
幸いにもその予言が的中したと思う。市民運動としては、数少ない成功した運動となった。
しかし、喫煙奨励の「たばこ事業法」がまだ息をしている。これを絶命させなければならない。この悪法が元凶であることを改めて訴えておきたい。
原発事故という“人災”に対して、これを推進してきた連中がまだ何の責任も追及されていないのは、どう考えてもおかしい。このようなわが日本社会の悪しき曖昧さと喫煙被害に甘い日本社会の体質とには共通したものがあると考える。
人間の命を尊重するという視点が確立されなければ、喫煙被害はなくならないし、壊滅的な原発事故という悪夢を再び見ることになろう。
どちらにも手を緩めるわけにはいかない。